冷やした水

モンマルトルで過ごす春は何度目だろうか

桜も散り 外はすっかり夏の様子だ

ペットボトルの生ぬるい水をグラスに注ぎながら

最後の日のことを思い出していた

 

「水、冷えていないんだね」

彼は そう言って冷蔵庫の扉を閉めた。

しまった そうだった

彼はいつも冷えた水しか飲まなかった

そして私はたくさんの水を冷蔵庫に冷やしていた

決してきらさないように

 

彼は、首元の伸びたティシャツを

顔まで引っ張り上げながら

流れ落ちる汗をぬぐっている

そして、もう片方の手で乱暴に私の荷物を取りだした

私は、「ありがとう 私の家にあった分もこれで全部よ」

そう言いながら彼の荷物をまとめた紙袋を手渡した

 

彼はうつむいたまま

「じゃあ元気でね やり直したくなったら連絡してきていいから」

本気とも嘘とも言えない声で言った

低く 柔らかい 懐かしい声だった

そして 顔を上げ ようやく私の顔を見た彼は

「じゃあ もう次の人見つけてもいいんだね?」

その言葉は 迷いや未練を含みながらする別れの確認だ

そしてそれは 彼の次の恋が始まっていることを教えてくれていた

 

あの日 あの最後の日

水を冷やしておけばよかったと思う

 

気が付けばそんなことばかりだ

彼にしておけばよかったと思うことがたくさんある。

 

窓から顔を出して手を振ればよかった

駅まで見送ればよかった

もっと話せばよかった

穏やかな幸せを手にしている喜びに気づけばよかった

 

この幸せでいいのだ

この幸せがいいのだ

幸せはどこかにあるわけでも

何かを手に入れてなるわけでもない

今 ここにあるということに気づくという

それだけ

彼のために水を冷やすという幸せ

 

遠くから教会の鐘の音が聞こえてくる

すぐ下の通りではアコーディオン弾きが陽気な音楽を奏でている

私は 風に揺れているカーテンをじっと見ながらぼんやりと考えていた

彼と半袖で過ごしたのはあの日だけだったかもしれないということ

そして 彼と過ごす夏はもう来ないということを